「実現した事柄」  02.08.18   ルカ1:1〜4

 「実現した事柄がある」と、御言葉は語りかけてきます。
 「実現するだろう」という予想とは違います。
 「実現してほしい」という願いでもありません。
 もう、実現したことがあるのです。
 それが、これからルカによる福音書に記されていくのです。

 実現した事柄というのは、主イエスによって起こった事柄です。
主イエスの誕生、生涯、十字架、復活において実現した事柄です。
主イエスが完成され、十分成し遂げられた事柄です。
それは、ほかでもない私たちの「救い」です。罪の赦し、体のよみがえり、
永遠の命を得る神の民とされて、死と滅びから救い出されたのです。
 これは、もはや何物によっても邪魔されることのない、確かな救いであり、
その救いの中で生き、死に、よみがえる者とされているのが私たちです。
この実現した事柄が確実なものと分かってほしいと、御言葉は熱心に
語りかけてくるのです。

 私たちは、自分の救いを不確実なものと思い込むことがあります。
それは、主イエスが実現してくださった救いを「実現するかもしれない救い」
とか、「実現してほしい救い」に格下げしています。
 救いを自分が努力して実現しなくてはならないものだとすれば、それは
不確実なものであり、努力目標や願いにとどまるでしょう。罪を抱える
人間ですから、自分の救いに自信を持てる人など一人もいないはずです。

 そもそも、救いは神さまのなさることであって、人間が実現できるような
事柄ではないのです。だからこそ、主イエスがおいでになり、十字架にかかり、
復活されたのです。
 その神さまにしかできない事柄が私たちの間で実現したと、はっきりと
語りかけられています。

 「ほらここに、あなたには到底実現することのできない救いを私が実現した。
あなたのために用意した私の救いを受けなさい。」


そんな呼びかけを受けています。私たちは、その救いの確かさに入れられて、
喜び、感謝して生きていくのです。

すでに救われていることの安心が、人を愛する余裕を生みます。